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| 2006年3月2日(木) 勝負論(7) NO.50 |
『ある賭博師との出会い』 (前回からの続き)
私が勝手に名付けた『ハツカネズミ回転車運動の法則』から言えば、前後の因果関係に連続性が認められず、不確定な要素の
多い予測不可能な事柄は、確率理論に従い易く、確率計算は有効な手段です。
理論上の確立で言えば、勝負においての勝率は1/2と言えども、実際は優位に立つ者の方が遥かに勝つ見込みは高いと言う
現実があります。
理論は飽く迄も計算上の事に過ぎず、確率が何を示しているのか充分把握して利用する必要があります。
話をギャンブルに戻すと、勝敗の確率が1/2の出来事でも負ける可能性と言うは、単純に1/2であるとは言えず、大方は、
負ける確率の方が遥かに高いものです。
娯楽として楽しむには、良いのですが、血眼と成り形振り構わずのめり込むのは、問題が大き過ぎます。
確率の研究から、この様に結論を導き出した私は、勝率の小さな事柄に熱中しても意義を見出せないので、ギャンブルには
全く興味ありません。
ところが、世の中と言うのは、大変良く出来たもので、どの道にも通じた人は居るものです。
ある経緯で、プロの賭博師と知り合う事が出来ました。
当初、私には確率を核にしたギャンブルに対する強力な理論『ハツカネズミ回転車運動の法則』が、既に出来上っていました
ので、ギャンブルで生活をしている等、考えられる事では無く、一般的に賭博師と言えば、親類縁者や周井の人間に迷惑を
掛ける唯の厄介者とのイメ−ジしか浮かびません。
しかも、暮らし向きに不自由が無い所か普通の生活よりも羽振りが良いと言うのですから、到底信じられませんでした。
それに、何処にでも居る一般的な職種の人ではないので、何とも言い様のない話です。
ただ折角の御縁なので、話だけは拝聴しても構わないと考え会う事にしました。
これが、一つの切っ掛けと成り、人生観を含め物事に対する見方が大きく変わる一大事へと発展しました。
この話は、後ほど・・・
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今週は、上記まで書いてありましたが、何かと用事が多く水曜日の掲載に間に合いませんでした。
偶々目にした週刊誌に、最近流行の占い師について、面白そうな記事があり、昔、良く似た男と出会った時の事を思い出し
書いて見たく成り、急遽話題を変えたいと思います。
勝負論は、長編に成りますので後に譲ります。
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| 2006年2月25日(土) 勝負論(6) |
『余談』 (前回からの続き)
『確率』の定義を書き忘れていましたので、今回は余談を含め簡単に行いたいと思います。
◆確率:一つの事象の起こる可能性の度合い。
数学的確率とは、以上の様な事ですが、丁半の確率を求めるのは、単なる余興なので、特に問題はありません。
しかし、
「某国の牛肉を食べたとしても、狂牛病に罹る確率は交通事故に遭う確率よりも低いので、科学的に考えて安全と言える!」
との話が、飛び出しました。
この時、科学的根拠として使用された『確率』の利用方法は、正しいのでしょうか?
確かに、数字上の確率で言えば、交通事故に比べると多少程度の死亡率に過ぎませんが、
「当った方には、漏れなく、脳がスポンジの生き地獄直行便片道切符をプレゼント、ただし全て自己責任」
この様な実情では、殺人ロシアン・ル−レットを強要される印象を受け、極めて不快な話です。
もう少し、気の利いた弁解は考えられないものかと感じます。
ただ、今現在食料として、この肉を食用している彼国の民は、確率の計算上、狂牛病に罹るのは、自分の運が悪っただけの話な
ので、気にしないそうです。
数字に関する見方や感じ方には、文化の違いも大きく影響しているのでしょうが、人の感情が伴う場合は、何事においても計算
通り、数字通りには、容易く運ばないのが世の常です。
子供の頃、マカロニ・ウエスタンで、町を牛耳る悪徳保安官を成敗する、さすらいのガンマンを見た事があります。
画面を良く見たら、悪徳保安官助手は、『十手片手に御用提灯を持った岡っ引きと御用学者』だった等と茶番劇に成らなければ
良ろしいのですが、どの映画を見ても、『二束の草鞋』に正義の味方など、100%の確率で居ないものです。
この所、確率の話を中心にしていましたので、ついでを兼ねて、一言申してみました。
次回からは、再び確率の話に戻します。
次回に続く
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| 2006年2月23日(水) 勝負論(5) |
『確率から得られる勝敗の教訓A』 (前回からの続き)
さて、今迄の経緯から考えると、勝敗の確率が、1/2に収束して行くと言う事ならば、胴元と張り方の関係も互いに勝率は、
1/2同士なのだから、単純に考えて互角の様に見えると思います。
ここで、最初に提議しておいた「どうして、賭場は負け過ぎて破産しないのだろうか?」この疑問を解決しないと、物事全体の
有様は全く見えてきません。
先輩達との確率実験の検証は、未だ続きます。
理論上の確率や勝率は、概ね理解出来ましたが、実際は、どの様な事に成るのでしょうか?
そこで、実験
先輩達4人に、麻雀の点数棒を10本ずつ渡して張り方と成って貰い、私は胴元のツボ振りと成り、丁半博打を検証して見ました。
最初は、棒の張り本数について、制約を設けず各自の判断としましたが、数本纏めて張ると、皆すぐにゲ−ムオ−バ−と成り
一行に長続きしません。
そこで、全員一本づつ張る遣り方に条件を変えてみました。
確率的には、互いの勝率は1/2な訳ですから、10回を1セットと見做なし、5割の勝率で、理論上延々と張り続けられる筈です。
しかし、現実には、100回以上張り続けられる人は、居ませんでした。
私も張り方と成って、相当粘りましたが、矢張り100回の壁は到底抜けません。
何故か?
これは、胴元を行ってみると良く理解できます。
仮に、張り方が全員一致団結して同じ方に張り、『胴元VS張り方』と成った場合、胴元の勝率は、張り方に対し1/2と成りますが、
それ以外では、張り方内での清算が可能な為、胴元は支払いについて優位に立ちます。
もう一つ重要なのは、張り方の駒は、10本に過ぎませんが、胴元は数倍以上の本数を保有し、圧倒的持続力を保有している
ので、張り方が諦めるまで、幾らでも勝負が可能なのです。
何より一番の要因は、賭け率(張る本数)を一定にした場合、勝率5割を切った時から、ジリ貧が始まり、不調が重なると一気に
負けへと傾いてしまう事です。
ある程度勝てていても、回数と共に、やがて1/2に収束し、最終的には、持久戦で持ち堪えられなく成り負けて行きます。
つまり、一定の賭け率を維持しながら、回転数を上げて行くと勝率が最大要因に成ります。
この時、回転数を上げれば上げるに従い、勝率は1/2に収束して行きます。
平均勝率5割を維持できれば、継続可能ですが、負けが重なると平均化するのではなく、回復させるのに必要な勝率が、
より高いものでないと回復不能に陥ります。
上記の例を取り、解り易く言えば、10本持って理論上、最大10回挑戦出来る環境ならば、5回勝てば10本を維持できます。
この時は、勝率は1/2=50%です。
しかし、4回しか勝てず、8本に成ってしまった場合、10本に戻そうと思えば、5回勝たなければ10本に回復しません。
この時、理論上、前もって可能な挑戦回数の最大は、8回です。
つまり、5/8=62.5%の勝率が必要と成ります。
先輩達は、「スリップ・ダウンの法則」と呼んでいましたが、私は「ハツカネズミ回転車運動の法則」と命名しました。
これは、負けを平均化して1/2に近付ける為には、充分に数をこなしながら上昇させるだけの追加資金を継続的に投入する事が
必要不可欠と成ってしまい、厳しい持久戦に耐えざるを得ない事を指しています。
資金量が限られている場合は、持久戦に成ってしまうと高水準の勝率を維持できなければ、殆ど持ち堪えら無く成ります。
以上は、確率実験を検証する為の理論上の出来事であり、口銭(手数料)等による影響度は、全く考慮していません。
これらのシステムを良く検証してみると方法論こそ違うものの基本原理が共通する良く似たものに、何か覚えはありませんか?
次回に続く
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| 2006年2月18日(土) 勝負論(4) |
『確率から得られる勝敗の教訓@』 (前回からの続き)
初めに、『サイコロ丁半』の確率理論を簡単に述べます。
2個のサイコロを同時に振り、その時の出目の和は、丁(偶数)か半(奇数)のどちらか一方に必ず成ります。
単純に考えれば、丁か半しかないのだから、2つに1つ、つまり1/2の確率です。
ギャンブルとして考えると、自身の予想を立てるのですから、組み合わせとしては、
(場の出目:自身の予想)・・・(丁:丁)、(丁:半)、(半:半)、(半:丁)と、この4通りの組み合わせの内、どれかと成ります。
全部で4つの組み合わせの内、当りが2つ、外れが2つ、それぞれ、当りが2/4、外れが2/4、と成り、矢張り当りは1/2、
外れも1/2の確率と成ります。
では、第10回目に、丁半の確率はどの程度?と言っても、矢張り確率は1/2ですし、第8953回目の丁半の確率も1/2です。
これは、1回1回サイコロを振る行為事態、前後の因果関係の連続性は何も無いのですから、それぞれ独立した事象であり、
その時々に抜き出した、その場その場の確率は1/2のままなのです。
従って、「第526回目の出目を80%以上の確率で予想可能か?」と言えば、それは、どの様なシステムを考えようと理論上全く
無理な話です。
世間に良くある話で、「○×システムを利用すれば、80%以上の的中率を云々〜、」との広告を見かけます。
対象にする物事にも因るのでしょうが、冷静に考えて見れば、唯のセ−ルス・ト−クに過ぎ無い事だと気が付くと思います。
では、実験の結果が、どうかと言えば、私の詳細な実験記録は紛失してしまったので、記憶にある部分で申し上げると、
1万回サイコロを振って、概ね丁半の割合は、46:54だったと記憶しています。
半の割合が、300台後半以上多くあり、四捨五入して400とした記憶があります。
先輩達のデ−タを継ぎ足して、10万回にして見た所、丁の偏りが、2,000台前半と成り、丁半の割合は52:48程度に成ったと
記憶しています。
先輩の中に、丁を1,000回以上偏らせた人があったので、「サイコロに偏りの問題があるのではないか?」との話も出ましたが、
私を含め半に偏らせた事例もありましたから、偶然の範疇と言う事で片付いたようです。
因みに、実験者全員、同じどんぶりとサイコロを使用しています。
実験結果からも裏付けられた様に、回数が多く成って行く程、出目の確率は1/2に収束して行くと言う事です。
数学の教科書なら、ここで終るのですが、ギャンブルの話で考えると、これで終らせる訳には参りますまい!
次回から、もう少し掘り下げながら考えて見たいと思います。
次回に続く
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| 2006年2月15日(水) 勝負論(3) |
『理論と実体験』 (前回からの続き)
結論を先に述べるならば、確率に於ける数理は、教科書にある通りで、それ以上でもそれ以下でもありません。
しかし、確率を理解する上で大切なのは、教科書の説明を丸暗記するよりも実験を行い自身の目で確認して見る事にあると
思います。
実験などと言えば、大層に聞こえますが、単純な作業の繰り返しですから、何も態々手間隙掛けず、教科書を一通り読み、
誰かの実験デ−タを確認すれば、それで充分です。
それでも敢て先輩達共々、徹夜までしながら、シゴキ同様の実験を繰り返したのは、
『実験から得られる経験上の知識は、単に理論を検証し理解するのに留まらず、その過程で得られる経験事態が様々な
事柄に応用可能と成る思考力の基礎を蓄積する事に他ならない。』
この事を実修するのが一番大切であり、単にギャンブルの勝ち負けを云々すると言った戯事では無いのです。
論語の一節、『学而不思則罔、思而不学則殆』(人から学ぶだけで、自ら考えなければ無知であり、自分の思考だけで、先人の
知恵を学ばなければ、身が危うくなる)は、言葉は違えども、同じ意を指していると実感しています。
前置きは、この位にして、具体的な実験内容を述べて行きましょう。
先ず、教科書に必ず例題とされている、サイコロを2個、ドンブリに投げて、サイコロの出目の和が、丁(偶数)か半(奇数)かの
割合を求め確率を計算すると言った簡単なものです。
勿論、サイコロに細工をしたイカサマはありません。
この実験回数は、1万回サイコロを振り、出目と出目の連続性を記録します。
一言で、1万回と片付けるのは簡単ですが、この実験を完了するまでに、3ヶ月程要したと記憶しています。
初めの300回程度までは、「教科書通りかな?それとも予想に反した結果が出てくるのかな?」等と興味深々ですから、雑作も
無く運びますが、これ以上は回数が増すに釣れ、腕の筋や指先は痛くなるし、1,000回を超える頃には、心底ホトホト嫌に成り、
「サイコロ遊びなんて、一生するものか!」と嫌気が差しました。
記録は先輩が手伝ってくれましたから、徹夜しながらでも1日掛かりで何とか1,000回は達成できました。
しかし、残り9,000回分の事を考えるだけで気は重く成り、先輩達には、1,000回で勘弁して欲しかったのですが、1,000回程度
では、デ−タとして不足だと叱られ、その後も、この実験が完了する迄の間、週一回催しの麻雀大会には雑ぜて貰えず、先輩が
行う麻雀を横目に、傍らで只管サイコロを振り続け、何とか目標の1万回を達成しました。
因みに、私の麻雀は余り強くありません。
後々、この実験は、様々な物事を考え実行する上で、役立っていますから、貴重な経験です。
次回は、実験より得た教訓を中心に持論を展開したいと思います。
次回に続く
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| 2006年2月11日(土) 勝負論(2) NO.45 |
本日は、建国記念日なので、その話題に触れたかったのですが、成り行き上、『勝負論』を続けたいと思います。
勝負論を展開するについて、避けては通れない問題に『確率』があります。
以前の書き込みで、私がギャンブルをしないのは、『運の無駄使いをしない為』と記しました。
しかし、それだけの理由が全てではなく、学生時代に、麻雀を教授してくれた先輩の強引な勧めにより、『確率研究同好会』なる
変人の集合体クラブで、確率に関する諸々の研究実験を行った事にも起因しています。
何故、この様な運びに成ったのかと言いますと、私は子供の頃から時代劇が大好きで大概の作品は見ていると思います。
時代劇と言えば、『賭場』のシ−ンは、欠かせない付き物ですが、「どうして、賭場は負け過ぎて破産しないのだろうか?」と
子供の頃から長い間、疑問に思っていました。
時代劇での『イカサマ博打』なら尤もな話ですが、「現実の御開帳では、どうするのだろうか?」
この事に興味は、尽きませんでした。
麻雀をしながら、何気なく先輩達に、その話をした所、麻雀大会はそこで中止と成り、サイコロの確率実験へと代わってしまい、
この一件が、切っ掛けと成り、私も確率の実験と検証を始め、
『ギャンブルは、娯楽として楽しむものでは有るが、稼ぐ為のものではない』との人生観に達したのです。
その後、哲学を研究している時、『運の無駄使い』と言う事も知る運びに成りました。
確率を研究して行くと、ギャンブルなど不確定要素の多い物事に対して、二通りの捉え方に集約されて来ると思います。
@確率論を上手に使い、ギャンブルや相場に応用して稼ぎたい。
A確率論から見て、不利な事は無意味だから止めておく。
結果的に、現実派の私は、Aの結論と成りましたが、熱狂的ロマンチストであった同好会の会長は、@の信念を持ち、日夜
コンピュ−タ−を駆使しながら、確率の実験と理論の研究に没頭していました。
その割には、この会長、何かに付けギャンブルの成績は振るわず『カモネギ』状態だった様な気がします。
『人間、余り浮世離れしていると碌な事に成らない!』と、この人を見ていて、その様に悟りました。
確率と言えば、教科書等でも御馴染、サイコロを使った実験が定番です。
私もサイコロ実験を中心に様々な結論を導きましたが、次回から実験で得た教訓とその他経験談を述べて行きたいと思います。
次回に続く
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| 2006年2月8日(水) 勝負論(1) |
これから、暫くの間、『勝負論』を展開したいと思います。
この話は、以前、ある人に語った所、大層受けた話を基にしていますが、この様な記述形式だと表現に限界がありますので、
単なる読み物として、御笑覧下さい。
諸々を語る前に、幾つか言葉の定義をして置きます。
私の場合、相場の基本は元軍人達の知識と経験を相伝され、主な思考形成を為していますから、現在一般的に相場で使用
されている意味合いの用語や見方等とは、相当なズレが生じていると思われる為です。
今回は、『戦術』と『戦略』の違いについて、簡単に触れたいと思います。
◆戦術:戦闘を行う上での方策。転じて、ある目的を達成するための方策。
◆戦略:戦争の総合的な準備・計画・運用の方策。戦術よりも大局的なものを言う。
(以上、岩波国語辞典より、転載)
上記の様に、『戦術』は個々の具体的使用方法を指し、『戦略』は全体的展望の方策を指すもので、『総合的な準備・計画・運用』
を纏めた戦略には、各項目毎に個々の戦術が秘められていると言う事に成ります。
この時、大切なのは、戦略上の各項目の戦術は、互いに補完関係に無ければ、目的達成の方策として成立しない事にあり、
相場で言えば、『資金配分、仕掛け方、建て玉運用』の各項目別に戦術を用意し、一つの『戦略』として体系だった機能を
持たせる事が肝心だと言えます。
『予測』は、仕掛け方の一部、偵察情報の解析を担うのに過ぎず、「当たり、外れ」に対し血眼と成るだけでは、用を足しません。
因みに、『予測』には『体系だった予測戦略』も必要と成り、その為の戦術を如何計らうのか?ここにも要点が存在しています。
以上は一般論を述べたに過ぎませんが、計略を伴わない『風林火山』では、唯の『御題目』に終ります。
実際問題、自分の描いた思惑通りに運ぶ事は少ないですから、形勢が思惑の反対を向いた時、如何に『防御』をするのか?
ここが、重要な鍵を握ります。
経験上、絶対の確信を持って言える事は、「総崩れと成る前に余力を残しながら陣を畳み、逃げる際は脇目も振らず逃げる!」
この一言に尽きます。
次回に続く
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| 2006年2月5日(日) 私見 |
今朝の読売新聞に、『児童を公園のトイレに監禁した教員が、自らの猥褻な行為を見せ逮捕』との報道を目にしました。
少し前にも、盗んだセ−ラ−服と下着を着用し、自動車を運転していた教員が逮捕されると言った不祥事を起こしています。
又、「俺は、ヤクザだ」などと女子高生を脅した挙句、暴行すると言った事件もありました。
『教育』と言う人を育む職にある者が、その陰に隠れて、『変態行為を行っている』、この様な愚かな大人の後姿を見せながら、
一体、何を子供達に伝えられると言うのでしょうか?
これらの不届者も、ある日突然、変態に変身したのではなかろうし、他にも予備軍は居ないのか全国的に徹底調査する必要が
あります。
もし、見て見ぬ振りをする職場の者があるとするならば、道義的に同罪であります。
この様な破廉恥者が横行している有様では、国家の基盤を揺るがし兼ねません。
近頃、特に思うのですが、口先だけ達者で、所行の悪い不埒な大人が増加の一途を辿っています。
私は、幼年時からの精神教育が、生涯を通じた人間形成上、最も大切だと感じています。
小学時より、柔道や剣道と言った武道を修めさせ、礼節と道徳を重んじる心身ともに健全な人間形成を図る事が、国家の
急務なのではないでしょうか?
戦後の教育現場は、『自由』と『勝手』を履き違えた無責任な言動を繰り返す思想に毒され、身勝手で放漫な人間形成を続けた
結果、今日の様な事態を招いたのです。
国歌に反発し国旗を蔑にする様な、日本国を愚弄するが如き振る舞いの輩に日本の将来が育める訳など有ろう筈がありません。
社会情勢を見る限り、単に教員だけに教育現場を任せるのではなく、警察OBなどに協力を求め、児童の安全対策を図ると同時に
武道教室の開催や問題教員の監視と言った抜本的教育現場の改革が求められます。
人間の質が低下した国家に繁栄などありえません。
『国家の基は人にあり』、日本の将来を如何にするのかは、基礎教育が最重要課題の筈です。
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| 2006年2月4日(土) 雑談 |
この様な掲載を頻繁に行うと『ネタ集め』に困るのですが、最近話題には事欠かないので幸いです。
今後、この企画をどの様な方向で進めるか、未だ思案中ではありますが、知人などとの雑談や問いから、ヒントを得ながら、
文章上でも一意見を述べる形式で進めて行きたいと思います。
さて、この所アメリカの事を良く書いていますが、「中国に対して如何なる考えを持っているのか?」との問いも時折受けます。
中国は、文化、経済、軍事を含めアジアの盟主と成る事は確実ですし、着々と日本の地位を追い詰めつつあるのが現状です。
日本にとり、避けては通れない問題ですから、折に触れて取り上げる予定です。
ややこしい問題を論議する前に、『予想』と『予測』の違いについて、触れたいと思います。
辞書を引いて見ると、以下のように解説されています。
◆予想:将来どうなるか、前もって見当をつけること
◆予測:将来の出来事や有様を何らかの根拠に立って推し測ること。
(以上、岩波国語辞典より、転載)
国語上の意味合いからすると似たような感じですが、重要なのは『何らかの根拠により判断する』、この作業をどの様な工程で
行うのかにあります。
「根も葉も無いが、何と無くそう思った」これが、『予想』であり、「真偽は別にして、何らかの根拠を前提に判断した」これを
『予測』と言います。
予想は、元々根拠が軽薄ですから、『当たり外れ』が論点の中心と成るべき性質のものです。
しかし、『予測』は根拠を前提に判断を下す作業なのですから、「前提にした条件が如何なのか?」、この事実関係を中心に、
論議すべき問題なのです。
根拠があっても根拠(前提)を示さない場合の論は、ただの予想に過ぎません。
根拠を判じ得ない以上、全くの空虚に等しいのです。
空虚を信じ行動するのは盲進であり、その必要性の意義とは、一体如何なるものなのでしょうか?
では、『予測』をすると諸条件は満たされるのかと言えば、根拠と成り得る全ての条件が理論通り運ぶ訳ではありません。
何故なら、判断上前提条件の不足や予測の回避と言った仮定の崩れる事態も同時発生したり、一つの仮定が市場の合意を
得られるのか否か、これらは全くの別問題だからです。
罫線を予測の根拠に据えるとするならば、「罫線の前提とは何であるか?」それが充分理解出来た後、前提条件の一つとして、
価値を秘めるのではないでしょうか? |
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| 2006年2月1日(水) 心の呟き (NO.41) 2月2日一部追加 |
知り合いから、探求雑話集の掲載内容を充実させるのならば、日刊にしたらどうか?と言われました。
私は軽妙なコラムニストではないので、短く巧みな文章で表現できる程の才は無く、尤もその様な事は関心すら無く、この程度で
精一杯と言った所です。
そもそも受け狙いの迎合は嫌いだし、かと言って、余り本音を書き過ぎても問題が出るだろうし、バランスを失わず程々の所で、
落すのは難しく、今ですら表現に行過ぎもあるようです。
さて、FOMCの発表内容は、報道で承知の通りです。
今後の利上げについての判断は、人それぞれ様々有ろうかと思います。
ただ、インフレ懸念の原因でもある原油価格に付いては、イラン問題を含め高騰材料には事欠かないので、そう簡単には、
下がらない、下げさせない、だろうな〜と観ています。
ドルが強く成る事は、輸入超大国であり海外投資資金に頼らざるを得ない米国と輸出諸国にとっても都合の良い事ですが、
米国内の産業界や農家からは、反発が強まると思います。
今年は中間選挙である事を考慮すると、頃合に成れば、成り行き上『云々』と言う事に成るでしょう。
私は、毎年の米国大統領一般教書演説をロイタ−通信で欠かさずチェックしていますが、今年は、エネルギ−問題、中でも特に、
穀物を用いた代替エネルギ−のエタノ−ルを生産する最新技術開発について、触れた事を興味深く観ています。
近々、経済に影響を与える事ではありませんが、穀物(食料)と石油(エネルギ−)の世界戦略に関わる事ですから、人知れず
進行する事でしょう。
しかし、この事の波及効果は経済的事項に止まりません。
何の事かは明言を避けますが、数年後、ここに記したい事柄は、概ね現実と成る筈です。
最近、中国での牛肉消費量やロシアの産油事情などを合わせながら考えるとボンヤリながら見えてくるものもあるかと思います。
日本人から見ると、米国は何かに付け大雑把に見えるのですが、オイシイ所は、絶対確実に抜け目無く押える。
それだからこそ、世界に君臨出来るのです。
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